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本棚・書庫
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第57回坩堝第58回位置第59回青森第60回模様
第61回王様第62回四角第63回半島第64回懸垂
第65回全身第66回回転第67回珈琲第68回反対
第69回夫・妻第70回隣人第71回危険第72回書類
第73回眼鏡第74回午前・午後第75回人形第76回世界
第77回仲間第78回教室第79回椅子第80回阿吽
第81回土地第82回煙突第83回 第84回 
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墨の香の父の抽斗敗戦日      遊起

★今年の敗戦日も灼けつくような暑さだったが、毎年この時期と父との思い出は切り離せないものがある。墨の香とあるから、きっと文才にもすぐれ、たしなみのある方だったのだろう。時代は文弱という言葉を生み、武勇にすぐれる男子をよしとしたが、戦争に負け、すべての価値観は根底からくつがえされた。墨の香の父の抽斗はそんな時代を静かに批判的に見ていたことを暗示させる。そして今もなお抽斗の闇は存在しているのだ。(長嶺千晶)

★父の香は何故、墨の香かは問うまい、敗戦日と父の香と墨のかがふっと湧いてくる。もう敗戦日より60年以上が過ぎゆく。(もとつぐ)

父恋ふや備前の夏の祭り寿司   しかの

★備前の寿司は知らない、祭も知らない。しかし無骨に明るい祭好きの父の姿が浮かんでくる。(もとつぐ)

秋暑し父の病を受け継ぎぬ    岩田 勇

★父祖から受け継ぐものに性格、癖、風貌やら概見にかかわりあるものが他人に認められやすく理解できる。しかし本人だけが承知する、身の内の病だというのは厳しい。それだけにこれ以上の季語はないと感じた。(恵子)

父がいて子がいて寂し秋の昼   菅原 主

★三世代のいる風景。世継のある理想的な中で感じる寂寥とはなんだろうか。孫に接する父の優しさ穏やかさは自分との親子関係には無かったからか。否、具体的な物事では無いと思う。あまりにも平穏な中のえもいわれぬ時の流れにごく自然に過ぎる雰囲気は、秋の調べといえよう。(恵子)

秋燈や嗅ぎしことなき父の肌    願船

★「嗅ぎしことなき父の肌」とは単なる報告のようでそうではない。そのような表現を選んだときの作者は、秋燈の柔らかな色に触発されたのか、父への懐かしさが湧き出してきたのである。そうして、その懐かしい父の匂いはどんなだっただろうと思うときに、俄かに秋燈の色が濃く感じられてくる。(喜代子)

父追ひしかの夕暮れや草いきれ  小兵衛

★父を思い出したのか、幼い我を思い出したのか。映画の一コマのように忽然と思い出された過ぎた日の夕暮れ。しかし、今あるのはただあたりにたちこめる強い草いきれだけなのである。(喜代子)

夏山や父の後ろ手我もせり      acacia

★「夏山」の季題がよく効いている。〈蒼翠滴るが如し〉という夏山は、槍や穂高のような名山であれ、鎌倉や丹沢あたりの山であれ、なんと言っても雄々しく親しく踏み込んでゆく対象である。夏山をふりかぶった男の後ろ手は男らしさの象徴そのもの。父に習って一人後ろ手を組んでいるのであろうが、私には父と子の横並びの背中が見える。寡黙に心情を通い合せている後ろ姿はいっそう夏山を鮮やかに見せている。(昌子)

字足らずの父の短冊終戦日     遊起

★同じ作者の「墨の香の父の抽斗敗戦日」もすばらしい。俳句としてはこちらの方が整っているかもしれないが、私には「字足らず」にぐっとくるものがある。字足らずには、言外に口数の少ない、不言実行型の父親を匂わせるものがある。ふとした「もの」から、戦争を味わった世代のありようを切なく偲んでいる、まことしみじみとした終戦日である。(昌子)

父の汗拭うがごとく墓撫でる      西方来人

★墓参りは、盂蘭盆会に先祖の墓に詣でることt?であるが、盆が近づくと墓を綺麗に掃除をし竹筒の花立や線香立などを取り替えたりする。墓石を洗うときは、布やタオルなどの柔らかいもので優しく丁寧に洗う。それは、あたかも『父の背中の汗を拭いてさしあげるように・・。』である。香華を手向け、団子や菜物「胡瓜・茄子・南瓜などを刻んだもの」を供える風習がある。作者のやさしさが身にしみて感じられ、心温まる一句である。(竹野子)

寺裏に涼を求めて父居ます     半右衛門

★菩提寺の盂蘭盆会の供養会に参詣する習慣は、祖先と自分との命の継続性を敬い貴んできた日本文化の魂の源泉である。『涼を求めて』の語意と語感のうちに何を思うかは、読者の意中を窺っているのである。「有史以来人類が、文明と繁栄の名の下に破壊してきた自然環境(地球の温暖化)や人道と人権を無視した拉致とテロの横行」などへの洞察が求められている戦後62年目の夏である。戦火に倒れた多くの英霊に思いを馳せるとき「爽快な涼風に安心して身を委ねられる地球環境の回復と世界の平和を求める」父が居ますのだ。(竹野子)

古老から父の話や盆近し     西方来人

★『古老』とは、ただの老人の事ではない。昔からのことによく通じている老人のことである。近くに住む老人が毎年のように父との思い出を話しに来て、日頃忘れている父への懐かしさを甦らせてくれる。折しも八月は広島・長崎の原爆忌であることを思うとき、戦後62年目の盆間近であるであることが、しみじみと感じられるひとときである。(竹野子)

単帯正坐してをり父の前        shin

★太糸で地厚に織り上げた綴織(つづれおり)で、一般に博多帯と呼ばれ、普通には女子の夏季に用いる裏を付けない帯である。日頃は、椅子生活の多いい自分ながら、盆の月とも成ると平和への祈りとともにいろいろの思いが交差する内に、ちちを敬う気持ちがふつふつとこみ上げて来るのである。ふと我に返ってみると、正坐している自分の姿があった。単帯という気軽な装いと篤実な父との距離感が、父と娘の節度ある情感を感じさせる。(竹野子)

★夏のさなかに帯つきで父親の前に出て行く事に深い訳がありそう。慶事の報告であれば一番喜ばしいと思った。そこから威厳のある父親が想像され、父を立てる親子関係が歴然と見える。脇役から描いて父親を浮き彫りにした手腕が見事だと思う。(恵子)

★近頃は余り見かけない風景である。回想かも知れぬが、現在の風景とすると改まった相談事か、仏事の席であろうか。(もとつぐ)

父は負けて良かったのかも氷菓食ぶ    shin

★父が何に負けたのか、句の中には具体的には書かれていないがこの8月の暑さと終戦日を思うと、太平洋戦争のことを連想させられる。今、年老いて家族と氷菓を食べている父を見ると、あの戦争でもし勝っていたらこの人は、日本は、どうなっていたのだろうか、とふと危惧してしまうのだろう。氷菓は中村草田男の造語という。「六月の氷菓一盞の別れかな」の句による。(千晶)

斧といふ字に父の居て向日葵よ       猫じゃらし

★向日葵の力強い活力に比べ斧に占める父の座は小さい。(もとつぐ)

父の手をこの手が握る吾亦紅        隠岐灌木

★人生をしみじみと振りかえさせる内容をもっている。本来なら父の手にある子共の手である。しかし、今は少し衰えた足の覚束ない父を労わりながら、その手を曳いている吾がいたのだ。そう意識したときに、幼いころの父の手にあった自分がオーバーラップしてくるのだった。「父の手をこの手が握る」が巧い表現である。(喜代子)

怪談の懐中電灯父の顔           半右衛門

★「肝試し」・「お化け屋敷」・「怪談」は夏の風物詩のようなもの。この句は懐中電燈の中でこれから父が怪談を語ろうとしているのだろうか。そのまずはじめに、懐中電燈が父の顔を照らし出したのである。だから何ともこの句は語ってはいないが、なんとなくおかしみが滲んでくる。(喜代子)

父祖の地の青田あくまであをくある   和人

★先日老母の看病のために奈良県大和高田市に帰省した。病院の四方は真っ青な青田がどこまでも広がって、どこからも二上山が望めた。あたりの家は、土塀や板塀が削げながらも、庭木も格子戸もそれは美しく手入されていた。家の佇まいが古色蒼然とあることはとりもなおさず先祖代代の生き方を引き継いでいるということである。そんな青田は片手間にとりなしたものではない、気持の入れ込み方が違う、全くこの句の通りであった。家を守るということは辛いことも苦しいこともあるであろう、そんな思いの全てを包み込んでくれるような真っ青な風に人は心から癒されるのである。(昌子)

★父祖の地であるから、先祖伝来の農地なのであろう。「青田あくまであをあをと」と、ア音のリフレインが、雨に降りこめられて息づく青田の盛んな美しさを伝えている。情景がみずみずしく、青田の他には何もない天地の広がりを感じさせる。(千晶)

ご母堂は父の教え子盆の僧      森岡忠志

★お盆という、先祖の霊を迎えるおもてなしにとって、これほどの供養はないであろう。先祖を偲びつつ、現在只今を生きる人と人との御縁というものをあらためて感じ入るのも盆ならではものである。棚経のあとに冷たいお茶を勧めながら話も弾んだことであろう。この句からも実家の盆の僧をなつかしく思い出した。うちの場合は、ご母堂は母の教え子盆の僧、となるのだが、こうした私的な体験にそっくり当てはまる一句に出会うのも有り難い御縁である。(昌子)

★一句の背景のひろがりがなんと豊かなことであろうか。その土地に幾世代も住まわれている家柄、風格、夏座敷が彷彿とする。言外 に懐かしさが滲む。類想を指摘する向きがあるかもしれないが、穏 やかな句風を大切におもう。(恵子)

父さんや高い他界の雲の峰      曇 遊

★幼い頃、脇腹に両手を入れて全身を頭の上まで「高い高〜い」などといいながら持ち上げて、あやされた記憶のある人は多いいと思うが、そんな父さんも他界されて久しいのであろうか・・。夏の空を凌駕する入道雲を見ていると父への記憶が髣髴として甦るのである。「高い」と「他界」を『高い高〜い』の掛詞として、父の「 幽と明 」を明らかにした手柄を評価したい。(竹野子)

いつからか「父親」と呼ぶ子冷奴   たんぽぽ

★親から見れば、子供はいつまでも幼く見えるものではあるが、大人びるにつれて父との会話も少なくなる。中学も2・3年ごろであったか、高校生になった頃であったか・・突然「親父(おやぢ)」と呼ばれ、どきっとしたことを懐かしく思い出しているのである。「どきっとした親父」の表情が、季語である「冷奴」の危うさによって、子供に対する複雑な親の気持ちまでがよく伝わってくる。中学の校長の卒業生への贐の言葉が『早く大人になれ、早く大人になるな』であったことを思い出した。(竹野子)

父一言母の一言梅雨曇り       渓二

★ともすると甘くなりがちな父という課題が、さりげなく詠われた。両親 の会話ではなく、出かける挨拶に対して掛けられた言葉と採りたい。 梅雨曇りといういささかの不安を含んだ季題の斡旋が家族の温もり を感じさせ、威厳のある父親をも想像させた。(恵子)

怒ることなき父が立つ百日紅    海音

★距離を置いて父親を見ることができるのは幾歳になってであろうか。夏空に赫々と燃えるさるすべりは、秘めた何かを持つ花である。そこに立つ父の背に読み取ったものが広がってゆく。作者もおそら く同じ憤懣を感じているに違いない。(恵子)

鱧なんぞ多分一度も父食はず   森岡忠志

★本来はどの魚にも季節はある。しかし、鱧ほど季節を感じさせてくれる魚は他にない。例えば「初鰹」とは言っても結構長い期間にわたって店頭に乗せられている。それは秋刀魚でも然り。だが、夏の独特な感触として鱧があると言ってもいいほど、この魚は季節に忠実である。関東ならばなおさらである。そこいらの魚屋で鱧などを見ることがない。庶民的でありながらも通人の食べ物にも思える。作者の中にもそんな特別なものが鱧のイメージだったのではないだろうか。「多分一度も父食はず」は父を懐かしむと同時に鱧の季節感を表現していt?る。(喜代子)

一文字を貰ゐしのみの父子草      佳子

★この句は作者の名前に父の一文字が当てられたという内容なのだろう。それは人生の中での感慨でもある。ただ一文字もらっただけだなー、という父の思い出し方もまた、父子草の目立たない咲き様に重ねられていく。(喜代子)

辰巳風親父の怒声掻き毟る      半右衛門

★辰巳風とは南東の強風で関東地方で用いられている。その風の強さを「親父の怒声掻き毟る」で現しているのである。父の言葉によって成立っている句である。(喜代子)

小照の父なにか言ふ麦こがし     石田義風

★「麦こがし」なるものを、このごろは見かけなくなった。大麦を炒って粉にしたもので、「はったい」ともいう。駄菓子やなどで見かけることがある。「小照」と言っているのだから、部屋の写真立てなどの中に納まっている父なのであろう。麦こがしを媒体にして、父の言葉が甦ったのか、麦こがしを口に入れたときの後戻りの出来ない状況が、父になにか言われそうな気配を醸しだすのか。作者の中にも「麦こがし」が懐かしいものとして捉えられている。作者はこのごろ取り合わせ、というか二物衝撃に意識を寄せているのかもしれない。それは、「父の日のなにごともなくビートルズ」などからも感じられた。(喜代子)

早引けの父が読むメモ「冷蔵庫見よ」    高楊枝

★「早引け」の父が帰ってくる家には、誰もいないのである。居ないことを予測しながら父が帰ってきたら読むであろうメモが置いてあるのだ。「冷蔵庫見よ」とは冷蔵庫の中を見よということなのだ理解しておく。中さえ見れば、早引けの父の無聊を埋めるべく、何かが用意がしてあるのだ。この句は、父を描くのでもなく、自分を描くのでもなく、自分と父との空間を詠んでいるのである。〈喜代子)

梅雨闇やしつかり磨く父の靴        佳音

★「しっかり」という一見軽い日常語が磐石の重みをもって梅雨闇に照応している。しっかり磨くのは父親の心情が作者に乗り移っているからであろうが、梅雨闇という季語もまった「しっかり」磨かさんとする作用をもたらすかのように迫っている。じっとりというよりひんやりとしてどこか艶やかな青みを帯びている梅雨闇である。かにかく自然というものは人の暮らしにそっと忍び込んでいる、その忍び込みを捉えるのが俳人の面目であることを気付かされる。 一句から向田邦子の「父の詫び状」を思い出されもした。(昌子)

子が釣って父が串打つ山女かな     たんぽぽ

★この子は、何歳ぐらいであろうか、私にはやはり中学生ぐらいの賢そうな男の子が想像される。そして、この父にしてこの子あり、みたいな野性味のあるお父さん。神経質でなかなか難しいといわれる山女釣りにもこんな至福の時があるとはすばらしい。子よりも父親のニンマリがたまらない。多分、〈涼風の一塊として男来る 龍太〉、こんなカッコいい姿に変身されたことであろう。(昌子)

車椅子父の草笛聞いてをり         ハジメ

★若い頃、あんなに元気だった父なのに・・。車椅子の父と介護の私を、暖かく包んでくれるかのように、庭の木々は新緑を装い草々は緑を深めてくれている。ものの哀れを感じ合える父と子の絆が『草笛』のとりなしによって健康で明るく爽やかな情趣を添える。(竹野子)

蚊遣り豚t?父は食後に眠りけり       半右衛門

★蚊遣りを置く器の形も面白い『豚』の形だというのである。幼い頃「食べてすぐ寝ると牛になる」牛は、食べたものをもう一度胃の中で煉りを返す(噛み直す為だ)。また在る時は「食べてすぐ寝ると豚になる」(豚のように横着な人間に成ってしまうぞ)という例えだが、蚊遣りの豚の愛嬌と食後に眠る父の姿とが重なり合って、父の生き様をいろいろとユーモラスに想像させてくれる楽しさがある。(竹野子)

麦秋や父を嫌ひし頃のこと       たんぽぽ

★秋は、五穀豊穣の季節であるが、麦は、一足早く夏の暑い日の下に黄熟する。周囲の山々新緑のうちに黄熟する麦の穂波は美しい。そんななかにあって、幼い頃よく叱られ嫌いだった父ではあるが、年老いてゆく父をみるとき黄麦の風波に乗って、父への思いが懐かしく彷彿として甦るのである。父と子の心の通い合うひと時である。(竹野子)

★幼いころは「お父さんのお嫁さんになるの」と言っていた娘も、少女期を過ぎ、ティーンエイジになると、何となく父親の存在が疎ましくなってくる。事あるごとに反抗したり、叱られたことが許せなかったりする。今になってみれば、自分のことも見えるし、父の思いも理解できるのに…麦秋の季語がそんな頃のなつかしさを伝えている。(千晶)

★倫理的にならず気弱にならず、もっと父を憎もう、十分の貌が浮かび上がってくる。 (もとつぐ)

ネクタイに父しめられて夏薊      恵

★男は生涯ネクタイに脅かされる。定年を過ぎ退職をしても礼装にはネクタイを考える。 父に限らず男の宿命と悲しさか。生涯ノーネクタイの男はいるのだろうか。夏薊がよい。 (もとつぐ)

棒のごと鍬形つかむ父なりき     小兵衛

★今でも夏休みの夜になると、懐中電灯を持った親子が山の方へ坂道をあがってゆく。この時こそ親は父親である。木っ端を拾うかのように、むんずと捕まえてくれた虫。低学年の子供にとって、なんと頼もしいお父さんであろうか。誰彼なしに持ち続けている郷愁の一場面と見た。(恵子)

甚兵衛に父と間違えられにけり   岩田勇

★昭和61年に第1回の俳句研究賞を受けられた新潟の俳人本宮哲郎さんの句に「母のもの妻が着てゐる炬燵かな」平成3年作がある。自解に「嫁は姑に似ると言われるが、30年以上も一緒に暮らすと無理もあるまい。ましては母のものを着ている妻である。」とある。掲句はご自分のこととして〜けりで締めた大変鮮明な句である。(恵子)

夏の夜の二幕六場の父帰る      岩田勇

★菊池寛の戯曲の題名に久しぶりに出会った。なんとも懐かしい。改めて筋書きを知ると、情婦に入れあげた末に落ちぶれて、帰るに帰れない男の話である。わけありの筋書きは知らず、先生の指導で中学生の私たちが文化祭で演じた。次の年次の生徒も演じたから、どこからも抗議なく、戦後の娯楽のない親たちが喜んで見たのかもしれない。大正半ばの戯曲で、もうすぐにわかる世代が少ないかもしれず、上の句は「夏の夜や」と切れ字がよろしいのではないだろうか。(恵子)

★今も昔も父の座は揺らぎやすく、今も「父帰る」の場面は繰り返される。そして今は帰るべき父の座もない時代である。(もとつぐ)

蛍狩り向こうに父の居るような     半右衛門

★ににんの仲間で四季の森公園に蛍を見に出かけた。野川で見たことはあったが、深い森に続く広い公園で見るのははじめてであった。作者は蛍の現れる間合いが、父の放ってくれるような息遣いに感じられたに違いない。蛍の現れる時間帯の限られた闇の不思議さが詠いあげられている。(恵子)

沈黙の父の背中の熱砂かな       acacia

★何も言わない父の背中が、突然熱砂につながる飛躍は素晴らしい。熱砂は限りない想像の世界をひろげてどこまでも飛んでいけそうである。その熱砂を読み手に実感させるのはやはり、父の背中なのである。この条理もない二つの繋がりが、詩情だと思う。(喜代子)

雷鳴や父の叱責いま耳に      横浜風

★小田急線「向ケ丘遊園駅」から徒歩十分ほどのところに「日本民家園」がある。江戸時代の古民家をはじめ、船頭小屋、高倉、農村歌舞伎舞台など二十数軒の建物を見ることができる。先日久し振りに訪れ、靴を脱いでくまなく古民家の囲炉裏や畳や廊下を味わっていたら心まで古色蒼然となってきた。その時である、まさしく、「厳つ霊(いかづち)」といえる強烈な雷鳴が響き渡った。ひやっと驚いた、見学者の男性が「オヤジが怒鳴っとるよっ!」とぎゅっと首をすくめられた。その声も仕草も、古民家の佇まいにたましいを吹き込んでくださったようで楽しかった。(昌子)

父の香がふとよぎりけり夏の風    acacia

★夏季には、「薫風」、「南風」、「青嵐」等、さらには「茅花流し」「白南風」「熱風」「涼風」など、情趣をしぼって詠いあげることのできるさまざまの風がある。 だが、掲句はきれいさっぱりというか、すべてをひっくるめてただ夏の風としたところがいっそう爽かでである。「父」を「母」に替えてみるまでもなく「父」のもたらす印象が、そのまま夏の風を喚起して湿り気を覚えない重量感がある。風を割って歩みながら、かけがえのない父という存在を肯定している作者の顔もまた爽かである。(昌子)

ははよりもちちのあはれや茄子の馬   たかはし水生

★盂蘭盆の初めに精霊を迎えることを「魂迎へ」と言うが、盆の終りに茄子の馬を仕立てて精霊を送り返すのが「霊送り」である。ははのものと見立てた馬よりちちのものと見立てた馬のほうが不恰好になってしまった・・物の哀れとはこんな所にも感じるものなのだ。 俳誌「鹿火屋」2代目の主宰であった、原コウ子の句に「父母ののるうしうまつくる朝も哭く」というのがある。父母や祖父母など身近な精霊の乗られる茄子馬である。(竹野子)

落とす影までおぼろげに父子草     ミサゴン

★「父子草」の茎は分枝せず匍匐枝(ほふくし)を出して繁殖する。茎・葉ともに白い綿毛を布し、春枝先に光沢のある赤褐色の花を密生する。和名は「母子草」に対してつけられたもので、漢名は「天(てん)青地白(せいちはく)」と言う。母子草の黄色い鮮やかさに対して父子草は、実におぼろげな影を落すものであるが、揚句は『父子草』を詠みながら、その背後に『母子草』の存在とその影を見ているのは、春の七草の「御形(オギョウ)」であることを知るからであろうか。(竹野子)

父の背の終戦の日の香りかな       acacia

★寡黙な父が終戦の日はなお寡黙であった。浴衣を着て黙って座る父の背から一瞬きな臭い汗の香りが立ちの昇りまたいつもの背にもどった。(もとつぐ)


予選句

夏山や父似の人に出会いけりacacia
吾が胸に精霊送火父の文字
「お父さん」嫁の発語に玉の汗 西方来人
父母の墓守るは吾と墓参り西方来人
蜘蛛の囲や父は何処と虫に問ふ隠岐灌木
葉鶏頭父の思惑入れ難し半右衛門
蔵盆父とよく似た頭巾かな半右衛門
庭隅に黙って父は草を取る半右衛門
父性より母性の強しタイフーン半右衛門
雷や父のほとほと子煩悩岩田勇
終戦日父の白黒写真見るハジメ
甚平の父の自慢の焼夷傷たか志
らしからぬ父の日乘ゆすらうめヒデ
父のすねる声遠くより暮の夏廣島屋
冷酒飲み益々t?父似といはれけり岩田勇
広島忌父から聞きしその刹那西方来人
昭和初期父の形見の扇風機半右衛門
夕焼けに話合わせる父と子や半右衛門
亡父遠くありてあんみつ掬ひけり原和人
父と娘は笑いこらえるかき氷半右衛門
梅雨晴れ間父と同じ手憤怒仏ミサゴン
夕焼けて砂場に浮ぶ父の笑み 隠岐灌木
またたびの花や博打と父親と 隠岐灌木
亡き父母も小さき私も麦藁帽森岡忠志
夏草に父の思ひ出なかりけり秋津子
金と銀の斧が交わる夏日陰曇遊
二の腕の力こぶ見せ父ありき西方来人
亡き父の植ゑし石榴の花盛り戯れ子
亡き父母も小さき私も麦藁帽森岡忠志
あんみつの器を冷やす父の真似 隠岐灌木
霍乱の父を扇いでゐたりけりたんぽぽ
子煩悩な父なりしかな白絣岩田勇
大空へ夏の匂いの秩父山曇遊
炎昼や亡き父釈と名乗りし日なかましん
父の日に辞書リクエスト団塊ぞ祥子
老父の日や口ごもり読む好いメール高楊枝
豚啼いて開けっ放しの父の里半右衛門
父逝きて母は小虫を育てけり半右衛門
爆撃を父の語りし暑き宵半右衛門
鶯よ父の眼鏡の歳になる曇遊
逆ネヂを父に教はるラムネかな佳音
母の留守無骨な父のおぼろ寿司 ミサゴン
渾身の父の拳固や毬紫陽花ミサゴン
父の日や父の復権いずくにぞ岩田勇
沖泳ぐ父呼ぶ昔むかしかな岩田勇
父と釣り息子も釣りし香魚かな隠岐灌木
木下闇父一代の住処かな
父の声忘れ久しき木下闇
自分史は不要と言ひし父の夏秋山博江
父の日の前に遺影を磨きけり西方来人
父の日と暦に印す娘孫西方来人
父逝くともらった電話雪の夜西方来人
旱にも弱みを見せぬ父在りしたんぽぽ
父に似て母に似合はぬ冷奴 ハジメ
母の留守風船蟲と遊ぶ父 半右衛門
父だけに買って帰ろかカーネーション小兵衛
真四角に菊押す父似直ぐ飽きるミサゴン
父権とは探しあぐねて青葉闇ミサゴン
若葉闇父という字のふと恋し華子
亡き父の植えし石榴の花盛り 戯れ子
夏蒲団親父と同じ薬飲む半右衛門
子沢山燕の父にも父の日が華子
はつたい粉いまも大きな父の椀隠岐灌木
父遺す写真に猛し雲の峰
どの顔もみんな親父さ雨がえるミサゴン
朴の花父の大正ダンディズムミサゴン
叔父逝きし摩文仁の丘や仏桑華森岡忠志
セピア色ステテコの父笑いけり半右衛門
げんげ田や父の背中の広かりき華子
叔父ふたり戦死の報せ田草引く森岡忠志
父の日にふと父として自覚せりハジメ
父の日に母百年の孤独かなacacia
父祖の地を離れる人や墓参り西方来人
父の字の昭和吉日稲扱機祥子
胡座かき父の晩酌芋焼酎祥子
父負へばなんとも軽し合歓の花 森岡忠志
6権とは探しあぐねて青葉闇ミサゴン
若葉闇父という字のふと恋し華子
亡き父の植えし石榴の花盛り 戯れ子
夏蒲団親父と同じ薬飲む半右衛門
子沢山燕の父にも父の日が華子
はつたい粉いまも大きな父の椀隠岐灌木
父遺す写真に猛し雲の峰
どの顔もみんな親父さ雨がえるミサゴン