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闘はずして夏負けの眼孔あり   けい

★永遠に続くかに思えた今年のあまりに暑い夏も、ようやく尻尾を見せた、と思うや、あっという間に秋の空気となった。この、舞台のカキワリが変わるような時期こそ、どっと夏の疲れが出るのである。勝負していたわけでもないのに、「君の負け」と宣言されている「夏負け」という言葉には、「夏と対等に闘っていたのだ」と思わせるおかしみも感じられる。皆さま、くれぐれもご自愛のくださいませ。(あき子)

闘いの声裏返る運動会   かも

★運動会も競技であるが、サッカーや野球などの歓声と違うは、観客と競技をするものの距離の近さである。「闘いの声」とは、玉入れのような団体競技。その競技中の子供の、何時もとは違う歓極まった声を「裏返る」と表現しているのだ。この一語によって、白熱した運動会の一瞬がみごとに言いとめられている。(喜代子)

闘ひは勝たねばならぬ更衣   RICKY

★更衣の心持ちは心機一転。動物たちに、脱皮や夏毛の抜け替わりがあるように、人に更衣のシーズンがある。脱皮する動物はこの時期、繊細な皮膚をむき出しにするため、身を守ることにもっとも専念しなければならないのだという。人の更衣という作業もまた、軽やかな気分だけではなく、どこかむき出しになる不安な部分があるのかとも思う。(あき子)

夏帽子ふかく昔の全共闘   匡(ただし)

★全共闘ということばも懐かしいものになっている。この作品のなかでも「昔」という一語になって現れている。正確には「全学共闘会議」と呼び、現在の「団塊の世代」の人たちが学生のころに通過してきているはずである。そうした運動、あのエネルギーはいったい何だったのだろうと思いを馳せるところに、「夏帽子ふかく」の表現が重なるのである。(喜代子)

ジャンケンに勝って摘みたり蛇苺   かたぎりみちこ

★蛇苺だけでなく、犬枇杷や烏瓜など,食べられない実に動物の名を被せてあるような気がする。昔の人の知恵である。それにしても、蛇苺とはよくぞ名付けたものである。そう呼ばれると、苺の赤さが俄かに濃くなってくる。足元に同時に見つけた蛇苺の所有権を、ジャンケンで決着をつけては、摘んでゆく少女たち。摘み溜めた蛇苺をそれからどうするのであろう。(喜代子)

決闘に勝つて涼しく十字切る   つーやん

★手袋を投げたら、それは決闘の申し込み。早撃ちの西部劇スタイルも設定しやすいが、ここは是非シェークスピア風の細長い剣が火花を散らす決闘シーンを思い浮かべたい。決闘の理由はもちろん恋愛がらみ。「どっちでもいいの、私」なんていう貴婦人が割と他人事に眺めている姿も欲しいところ。こうなると「涼しく十字を切る」のは、勝者とも、その貴婦人が冷淡に敗者に贈るとも考えられて、ますます面白い。ところで、国語辞典でフェンシングを調べると「片手で剣を持ち、互いに突いたり、切ったりしあう西洋流の剣術」とあって、これでは、せっかくのエリザベス朝ルネサンス文学の舞台が台なしである。(あき子)

泡盛や闘い来たる海の色   じゅん

★旧暦五月四日に沖縄では「ハーリー」が行われる。村ごとにカラフルな爬竜船(ハーリー船)を仕立て、レースを行う。これは、単純に一位を争うスポーツではなく、恵みの海への賛歌を込めた神事でもある。ハーリーで唄われるたくさんの歌のなかに「ゆがふ待ち受けて走る美しさよ」という歌詞がある。「ゆがふ」とは豊かな果報という意であるが、果報を与えてくれるも海、また、荒れ狂い、人という存在を拒絶するも海。その海と共に生きてきた沖縄の人たちを思うと、掲句はまるで、海そのものを詠ったものであるかのように、心に沁みるのである。(あき子)

闘魂の失せし軍鶏ゐる端居かな   ぎふう

★以前読んですっかり忘れていた書名が、俳句の情景をきっかけにずばりと出てくることがある。掲句から、私と同じ書名を浮かべる人も多いのではないかと思う。「こいつを見るのはもうよしてくれ。そんなに見られると軍鶏は疲れてしまうんだ」。恩給を待ちつつ、軍鶏の世話をする『大佐に手紙はこない』ガルシア・マルケスである。(あき子)

夏帽子闘ふ顔をつひに見ず   葦子

★この闘うという語を、スポーツと捉えるべきか、主義のための闘争と取るべきなのかは、ここでは提示されてはいない。夏帽子という限定が、高校生野球などを想像することは出来る。しかし、どちらだったとしても、作者はその闘う人を終始見詰めていたのである。見詰め続けいながら、その顔をはっきり認識した訳ではなかった。そのことが、作者の心の中で、印象的なものとして残ったのである。(喜代子)

勝ち負けのあるのか無いのか水鉄砲   あずさ

★水鉄砲も夏の子供たちの水遊びある。もともと、涼を楽しむものであるから水鉄砲を命中させたほうが喜んでいるのか、命中されたほうが喜んでいるのか分からない。どちらでも嬉しそうにキャッキャツと喜んでいるのである。それでいて、闘いの姿なのだから面白い。(喜代子)

Tシャツに闘魂の文字ドラムうつ   つと無

★激しく頭が前後し、手も足もてんでばらばらにリズムを刻む。ひとつひとつの動作を確認するような性格をもってすれば、ドラムは到底こなせない楽器であろう。そして、その汗だくの胸に「闘魂」の文字が息づいているのである。ドラマーとは、まさに闘いの姿勢以外の何者でもないように確信させられるのである。(あき子)

めくばせの闘魚に怯むいはれなし   ぎふう

★闘魚(Fighting Fish )とは物騒な名前である。調べると雄のテリトリーに見知らぬ雄が迷えば、どちらかが再起不能になるまで闘う熱帯魚だという。そしてその激しい闘争性から原産地のタイでは賭けの対象として扱われているらしい。掲句の「めくばせ」とはその賭けをする人間のものであろうか。そしてそんな視線に、ちっとも怯むようすがない美しい扇を広げたような闘魚の姿が、眼の前に涼し気にひるがえるのである。(あき子)

リストラや闘い終えし羽抜け鳥   中野一灯

★東京で暮らしている現在、どこを見回しても、にわとりがいる家庭などはないし、私自身幼い頃、夜店で買ってもらったひよこの記憶はあるが、羽抜鶏となるまで成長させたことはない。しかし、なぜか擬人化されると、羽抜鶏は俄然リアルな輪郭を持つ。「リストラ」という実態の割に軽く使われる最近の言葉が、「羽抜鶏」といういかにも哀れな季語によって、淡々と切なさを描くことに成功している。(あき子)

「闘うわ」眉根美し青j?嵐   萩月

★虚子に「春風や闘志抱きて丘に立つ」という句がある。この闘志は人生に立ち向かう決意である。原句は、どこか似ているようで違う闘志である。まずは、「闘うわ」の言葉が女性語である。それによって闘う内容が様々に想像されてくる。もしかしたらダイエットかもしれない、などとまで、連想がひろがる。(喜代子)

闘士たる昔ありけり盆の僧   由紀

★漫画のサザエさんには泥棒とお坊さんがよく出てくる。お坊さんの話のひとつに、お盆でお経をあげ終わったお坊さんが神妙にお説教を始めようとすると、波平さんが「まぁまぁ」とビールをすすめる。赤い顔になったお坊さんは「地獄も極楽も…」と立て膝でべらんめぇ調にうって変わる。「あなたの話は酔ってからが面白い」と、サザエさん一家はにこにこ顔でお坊さんを囲むのである。落語でもかなり派手な過去を背負っている人物が寺におさまっていることが多い。確かに世間知らずではやっていけない筆頭の稼業であろう。(あき子)

ガリ版の階級闘争雲母虫   段々

★いつからガリ版を使わなくなったのだろうか。というより、ガリ版というものを知っている年代が少なくなってきている。蝋を塗布した原紙に鉄筆で手書きした原稿を、一枚一枚、謄写版で刷っていた時が確かにあった。ワープロもコピーもない時代の簡易印刷である。そのガリ版刷りの階級闘争記録が雲母虫(紙魚とも言う)に食べられている。雲母にとっては、それが階級闘争の記録であろうと、詩集であろうと、お構いなしなのである。そこに、可笑味が現れている。(喜代子)

闘いに我関せず焉山椒魚   米川五山子

★山椒魚を手許の書物では「ひらべったいスペード形の頭と小さなボタンのような眼、体のまわりにだぶついた、いぼとしわのある皮膚を備えたおそろしげな姿(Life on Earth/早川書房)」と評している。しかし、水族館の片隅に置かれた山椒魚の印象は、掲句「我関せず」の言葉通り、半ば石と化した禅僧のような風采であった。小さくすばしっこい、やんちゃ盛りの山椒魚など、とても想像がつかない。アステカ人は山椒魚のことを「水のお化け」という名をつけていたそうである。(あき子)

のけぞj?つて沢蟹われを威嚇せり   つーやん

★沢蟹は春の季語というのは、実は私は最近になって認識した。子供時代の体験で、水に親しむ時期になるとのと、沢蟹に親しむのが一枚になっているのである。小さな沢蟹といえど、あの特徴のあるハサミを構えるのは大きな蟹と変わらない。その小さな沢蟹の威嚇だからこそ、作者の目を惹いたのである。(喜代子)

拳闘のゴング鳴りしや雲の峰   平田雄公子

★山手線を池袋駅から目白駅方向に乗り、しばらくすると右手にボクシングジムを通過する。ボクシングというスポーツに特に興味があるわけでもないが、乗るたびに必ずその存在を意識する。ぎりぎりに調整されたシルエットがガラス越しに動く。むくむくと沸き上る闘争心は、雹や雷雨をふところに抱く夏の雲そのものである。(あき子)

六月尽闘将カーン濡れしまま   正

★ワールドカップサッカーが終わった。カーンとは決勝で破れたドイツのゴールキーパーである。敵味方44本※の足が交錯するなか、蹴り込まれるボールをたったひとりで受け止める。ゴールキーパーとはなんと孤独なポジションであろう。雨のなか、濡れて佇むカーンの姿は、まさに雄姿であった。(あき子)
※11人×それぞれ2本×2チーム分=44→念の為(笑)

夏つばめ強いて明るく闘病記   浩伊知

★闘病とは、闘う相手が見えないから、重い主題である。だから作者は「強いて明るく」と言わなければならないのである。夏燕の軽やかで直線的な飛翔が、さらに意志を持って飛翔しているように見えてくる。そう言えば、書くという行為そのもがすべて意志である。(喜代子)


予選句

七人の敵討ち砕し夏終るRICKY
闘牛の眼ゆるみし峡の晝RICKY
入りますくりから紋紋桃の花かたぎりみちこ
蛇がへび一筋縄に呑まんとすつーやん
炎昼や戦闘蟻に影をやり岩井健一
朝顔に水やり夏行く前の女性淤爪
闘いて来たると思う子の寝息じゅん
ひまわりに美への闘いゴッホありゆきひろ
闘鶏の黙に膨らむ木下闇好春
蛇垂れて巣に親鳥の哭き挑む萩月
あるじなき夕顔雨夜と闘えり長谷川 晃
遠泳や闘志を支ふ伴走船ひつじ
内定へかく闘えり子のスーツ麻子
死んだふり猫と闘う守宮の子門田海婦子
稲妻や闘神阿修羅の太刀走るゆきひろ
浮世辞す闘の窓夕焼雲舞翔
棲み分けの理論や対峙する闘魚段々
蟷螂の子に針ほどの闘志かな由紀
浮世絵の団扇で闘うエコライフ麻子
灰燼にキスして闘うふたたび九月葉山
火取虫闘ふ闇の深さかな顎オッサン
決闘の相手ロミオか兜虫紅茶
黒主の闘歌悔いゐる土用凪やすか
向日葵や天に向かって闘志吐く樫本一美
麦笛や戦闘帽の中学生米川五山子
夏風邪をもはや闘う世代かな麻子
薄翅蜉蝣男女闘ふ定めかな平田雄公子
薄墨の海にクラゲと闘魂ウキおうしあ
平成や歳時記春の部で春闘葉山
炎昼やネットをはさむ格闘技香川ゆきを