2008/5/15 木曜日

ごちそうさまでした

まつもと・かずやさんの家には気楽に訪問できないのは、それそれは篤いもてなしをしてくれるからである。奥様がいとも気楽そうに作ってくれるのだが、何時間もかけて食べるお料理である。伺う予定日をきめるために電話をいれると、「あー、岩淵さん、たまには遊びにいらっしゃい」といういつもの元気な奥様の声がする。そう、前に伺ったのは二年ほど前なのである。

 まつもと・かずやさんは前にも書いたが、市川一男から「口語俳句」を引き継いで、何年か前まで主宰していた人。戦後の石鼎に二度ほど会っているというので、その印象を聞きたくてお邪魔することにした。何に対しても社会性を持たなければ、という主張があって、花鳥諷詠など全くうけつけない御仁。そこだけは厳しい意見を黙って聞いているしかない。

時には、まつもとさんがお留守だったりする。「忙しいでしょうね」なんていうと「いえーぜんぜん」という答えが返ってくる。夫人にとっては、夫のしていることの全部が遊びで、暇つぶしなのである。 気難しいまつもとさんとは正反対に「お父さんが死んだら、ここにあるものみんな岩淵さんにあげるわよ!」なんて、天井までの書棚を指差して平気でいう。まつもとさんは微笑をたたえながら聞いている。 

2時ごろ伺うと云うと、「それじゃー丁度いい。家はいつも昼が3時ごろだから」というので、ほんとにお構いなく」と念を入れておくのだが、いけばそうではないのが分かっているから、その心つもりで、昼は食べないで出かける。
お薄が出て、梅を餡にしたお菓子を頂いているうちに、お煎茶が出てきた。「家で作ったよ」という。庭に何本かのお茶の木があるのだ。毎年失敗していたのだが、この数年はうまく出来るようになったのだという。美味しいお茶である。

用意が出来ましたよと云われて、和室へ移動。サーモンのマリネが出て、アスパラとホタテのキュイソース和え。そこまでは写真を撮るのを忘れてしまった。a.jpg  鯛のあとはもうお腹がいっぱいになってきた。と洩らしたら、「すこしお休みしましょう」というので時計を見たら、なんとそこでもう五時を回っていた。
asobi.jpgasobidesu.jpgasobidesukara.jpg  最後にいつもサイホンで沸かすコーヒーが出る。そこで八時に近かった。「いやーこんな時間になっちゃった」というと、「泊まっていく」と奥様の声。とんでもない。泊まるには家を出るときからの、用意がある。

8時過ぎにお嬢さんが帰ってきて、その車で駅まで送っていただくことになった。あまり俳句に註文ばかりつけてしまったと思ったのか、「女性でそこまで、深く追求している人はいないよ」とまつもとさんがおっしゃった。ホッ!

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2008/5/14 水曜日

嘘であり影である至高なひとくくり  平田雄公子

─岩淵喜代子の世界─     

 今回は岩淵喜代子(ににん)氏の第四句集『嘘のやう影のやう』(平成二十年二月・㈱東京四季出版刊)です。本欄では、既に第二句集「蛍袋に灯をともす」、第三句集「硝子の仲間」を取り上げさせて貰いました(「谺」平成十二年十一月号および十六年五月号)ので、四年振りにお馴染の作家との邂逅と言えるのですが、それだけに更なる句境の進展、詩興の深まりに期待しながら、じっくり読み進めます。

雨だれのやうにも木魚あたたかし
 単調ながら聞き入っていると、何時か心に沁みる「木魚」の音。それは、心臓の鼓動や自然の息遣いに通ずる、「雨だれ」のリズムのよう。そして、ショパンの名曲ピアノ前奏曲《雨だれ》を思い浮かべさせる。ひっくるめて「あたたか」な、春の気分横溢の句である。

釦みな嵌めて東京空襲忌
 「空襲」が日常的だった戦時下では、女性のモンペに代表されるように、何時でも避難したり、行動をおこせるよう、質素ながらきちんとした服装でいた。掲句は、前大戦末期の昭和二十年三月十日の東京大空襲によって、無差別に一般市民である老若男女多数が過酷な目に遭ったこと(死者約十万、焼失戸数約二十七万)を、「釦」を「みな嵌めて」往時を偲びつつ、切に悼むもの。そう言えば、制服などの上の方の「釦」を、一つ二つ外すのが、昔の不良少年(少女)の定番だったものだが。

消しゴムを使へば匂ふアカンサス
 「消しゴム」を使う場面は、ふっと緊張の緩む時でもあろう。窓外からか部屋の中からか、「アカンサス」のすっくとした花穂から、甘い香が「匂ふ」夏の夕べ。消しゴムの匂いとも重なり合って、即かず離れずの、蠱惑(こわく)的で不思議な時空ではある。

海風やエリカの花の黒眼がち
 「エリカ」の、紅紫色の筒状の花の真ん中に、「黒眼」。その正体は、雄蕊の先=葯(やく)の色である。淡い色の花弁の中の黒であるから、正に《黒眼がち》なのである。「海風」にエリカの花枝が揺れると、黒眼が幾つも飛び出そうな塩梅に、睨まれ圧倒されるのだ。

きれぎれの鎌倉街道蝌蚪生まる
 「鎌倉街道」は鎌倉に幕府が置かれた頃、鎌倉と地方を結ぶ主要道路であり、鎌倉幕府の御家人たちが《いざ鎌倉》と馳せ参じた街道である。しかし、近来関東圏の市街化・人口稠密の進展などにより旧時代の道筋の多くは寸断され、鎌倉街道も「きれぎれ」状態なのだ。そんな人間の歴史や都合は、忘れられてもいようが、傍らの池や水路には、今春も賑々しく「蝌蚪生まる」景が臨め、自然のサイクルは時代を越えて健在なのである。

古井戸をのぞきチューリップをのぞく
 人間は物見高いと言うか、好奇心旺盛と言うか、無名の「古井戸」だろうが、隣家の「チューリップ」だろうが、熱心に「のぞき」込むもの。この辺り、俳人なら尚更であろう。掲句の、取合せの面白さ以上に、《古井戸》から脈絡も、節操もなく《チューリップ》へ対象を換えるところが、抜群である。

御堂から地べたに戻る雀の子
 「雀の子」は無意識に、「御堂から地べたに」易易として「戻る」。謂わば仏の精神界から、俗世の塵界への移動であり、人間の位で謂えば、やんごとない殿上人から、地べたに這い蹲る下人への転落であろう。人間の約束事の底の浅さを嗤い、自然=雀の子の逞しさを謳ったもの。

一生のどのあたりなる桜かな
 自分にとって、今が「一生のどのあたり」なのか。誰しもふっと考え及ぶことがあろう。今年もまた「桜」が、若木も老木も、それぞれ春を謳歌するように、美しい花を咲かせている。桜の生涯のスパンは、人間のそれの数倍であろうから、比較仕様もないのだが、人生にあっての花盛りは一体、何時のことなのか。

春窮の象に足音なかりけり
 この四月十日に、神戸市王子動物園で国内最高齢(六五歳)のインド象諏訪子(すわこ)の死亡したことが報ぜられたが、掲句の象は、筆者ご贔屓の井の頭文化園のはな子象(六一歳)でもあろうか。「春窮」即ち春も終る頃、象が春を惜しむ筈も無かろうが、春闌の気怠るさにあるのか、ステップが大人し目で「足音」がしないのだ。

嘘のやう影のやうなる黒揚羽
 句集名となった作品である。「黒揚羽」の悠揚迫らぬ飛翔振りを写したものだが、「嘘のやう影のやう」と畳み込まれると、忽ち大逆転し、黒揚羽が唯一《ほんもの》であって、それを取り囲む全てが《嘘であり影である》ように思えてくるのだ。

陶枕や百年といふひとくくり
《平均寿命の増大によって、「百年といふひとくくり」の重みと言うか、質的な意味合いが変わってきた。等身大になった百年が、年代物「陶枕」と恰好の取合せである。》(掲句は『俳句』昨年九月号に発表されたもの。俳誌『松の花』同年11月号の拙文「現代俳句管見」より、転載。)

晴天や繰り返し来る終戦日
 あの「終戦日」の、八月十五日も朝から暑い「晴天」の日だった。戦後六十余年を経た今、偶々にせよ晴天も「繰り返し来る」気がするほどの永さなのだ。これに先んずる二つの原爆忌と合わせ、日本人として忘れられない、忘れてはならない日である。

もうひとり子がゐるやうな鵙日和
 「鵙」は、他の鳥から托卵された場合律儀に孵し、子育てもするそうだが、この場合はどうか。男にはこの感覚は皆目解らない。落し子が名乗りでた場合でも無かろう。また、「鵙日和」との整合性となると殆ど見当も付かないのだが。ヒューマンな、秋麗の白昼夢と解したい。

運命のやうにかしぐや空の鷹
 「空の鷹」の飛翔振りは、ホバリングやソアリングを含め敏捷果敢だが、中でも風を読み、獲物を狙っての方向転換における身のこなしは、圧巻である。我が身を放下し、引力を引き寄せ「運命のやうにかしぐ」のである。冬麗の空気を、一気に引き裂くために。

男とは女とは霜一面に
 最近は男女の社会的格差縮小が進行し、生物的性差すらも希薄・曖昧になって来たようだが、「男とは女とは」の問題は依然人類永遠の疑問であろう。「一面」を遍く覆う「霜」は広大無辺だが、男女の関係や生き様は千差万別、とても一筋縄ではゆかないものとした、句。

湯たんぽを儀式のごとく抱へくる
 「湯たんぽ」は、最近環境に優しい暖房器具として見直されているようだが、取扱は至って素朴。薬缶から湯を注ぎ入れ、寝室へ運ぶ段になると、中でぽちゃぽちゃ揺れている。栓さえ固く締めてあれば別に問題はない筈なのだが、なるべく揺れないように、「儀式のごとく抱へくる」体たらくなのだ。暮らしのアクセントを謳った、句。

山茶花に語らせてゐる日差しかな
 庭や垣根の「山茶花」が、「日差し」を浴びて明るく咲いている。花期が長い花であるから、何時でも正面を向き勢いのある幾つかの花を付けているのだ。作者は、山茶花のもの言いたげな風情を超えて、話を聞きとめているらしい。その語り口は、どのようなものなのか。
 
以上のとおり、前二句集同様に《歯応えのある、自在性に富んだ》作品群でありました。即ち、対象の本質に鋭く迫りながら、比喩となると奔放を極め捉え難く、《嘘のやう影のやう》に展開する詩の世界そして俳の境地を垣間見る思いでありました。つまり《のやうに》のフレーズが、生半可の指摘では無く、単なる類想に終わらず、別次元へ昇華するのです。更に言えば、《嘘であり影である》部分にある真・善・美への讃歌になっています。今後も、全人格的に現代を語り次ぐ俳人として、存分のご活躍を期待したいと思います。

  『谺』五月号   (筆者住所〒108-0004武蔵野市吉祥寺本町3-21-6-201)

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2008/5/13 火曜日

麻布本村町 9

なんとなく石鼎の最後の住居を追っているうちに、家のありかも間取りもつかめそうになってきた。コウ子が、手ごろな家が空いているからと、木下蘇子にいわれて、タクシーで見にゆく道筋を記録してある。

龍土町から材木町を抜けて有栖川公園の角を曲り、鷹司家の前を通り抜けると直ぐに左に折れてゆきどまりの前でくるまが停まった。

 この鷹司家というのが分からないでまた、携帯で荒潤三さんに問い合せた。先日は戦争で全部焼けたのかどうかを問い合わせて、荒さんは図書館に行って戦争焼失地図なるものを探してきてくださった。まったく、変な人に取り付かれてしまったと、思っているかもしれない。午後になって返信がきた。今のフィンランド大使館・・・と。最後の行き止まりのところは実際に先日、荒さんに案内して頂いた。

かなり近くまでは追い詰めたので今度は、須賀敦子の文章からその位置をさぐる。

高台の家の窓からは、冬の夕方、赤やうすむらさきに染まった空のむこうに、逆光のなかの富士山が小さく見える日があった。家に近い、もう暮れかかった光林寺の境内には、ささらを逆さにしたような欅のこずえがしらじらと光っている。すこし顔をうつむけると、ほとんど真下に、勾配を上手に使った隣家の庭があって、着物姿の小柄な老人が、腰に手をあてたかっこうで空を見上げていた。

この小柄な老人が石鼎である。この文章から、光林寺と須賀敦子の家を結ぶと石鼎の家が自ずと想像できてくる。その上に八歳の少女は近所にもの凄い蔵書を持つ家のマサ子ちゃんと遊びまわる。そのマサ子ちゃんの家というのが。

ーー私たちのまえの私道を三軒ほど奥に入った突きあたりの家に、---
ーー勾配に建っているために、じつは二階建てになっているーーー
ーーそのころ近所に空き家があることがわかった。その家の門は、私たちの家とはまったく関係のない、光林寺坂という私と妹の通学路に面していたのだったが、---
ーーある日マサ子ちゃんが、うちの庭から、おとなりの庭にはいれるかも知れないよ、といったのでーーー

こんな具合の文章の中から、おおよその位置がつかめてきた。楽しい作業である。

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2008/5/11 日曜日

『嘘のやう影のやう』の鑑賞

 最近山口優夢さんと中西夕紀さんのお二人から拙句集に寄せる文章を頂いた。
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中西夕紀さんは先日紹介した結社誌『都市』 の代表
句集に「都市」「さねさす」など
http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/05/blog-post_1143.html

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山口優夢さんは21歳の学生さん。お名前だけだと女性かと思う人も居るかもしれないが男性です。たしか、本名だったとお聞きしたような気もする。俳句も本格的である。

婚礼の胸を花野と思ひけり
かりがねや背中で閉まる自動ドア
耳に耳触るる寒椿のやうに

http://blog.goo.ne.jp/y-yuumu/e/9e81b266df3babc242009966ae7f1780
  ~★~★~~★~★~~★~★~

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2008/5/10 土曜日

表紙絵

中西さんから電話があった。何度もお目に掛っているのだが、そんなに親しく話したことはない。彼女は最近、結社誌を創刊したが、その表紙のセンスは最近の雑誌の中では抜群である。

「表紙だけじゃねー」と謙遜していたが、私は雑誌は器も大いに大切だと思っている。そんな中で、今お気に入りの二つの一つが中西さんの「都市」、そしてもうひとつが、向田貴子さんの「歴路」である。

向田さんの雑誌は贅沢で、毎月表紙絵が違う。同じ作家のものだが、幻想的な絵を月がわりで楽しませてくれる。
「いいわねー」とか「贅沢ねー」とか、向田さんに会う度に口をついて出てしまう言葉だ。

「いやー・・・、そんなお金は払えないのよ、と言ってあるので、本人自前の表紙なの。あとで、作品集として発表する積りで描いているみたい」とおっしゃった。うーん、なおさらいい。

ところで、中西さんの用事は、週刊俳句の「俳句つながり」から頼まれたので私のことを書く、というのだ。それだけではない。そのあと、こんどは、私が誰かのことを書いて、その人にバトンタッチするらしい。いやー、どうしよう。「そのひと、インターネットを使ってないとね」という。

buroguyou1.jpg  中西夕紀主宰 『都市』創刊号

basyou10.jpg 向田貴子主宰 『暦路』  

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2008/5/9 金曜日

地震

寝ようかな、と立ちかけたときに地震は始まった。私の使っているパソコンはデスクトップだけ別個に机から立ち上がっているので、揺れには弱い。倒れてはいけないと暫く抑えていたが、今回の地震は横揺れのまま長かった。

ようやく治まって、気がついたのだが後ろの資料棚のほうがもっと危険だった。一応ストッパーが効いているが、何しろ本の類だから、信用してはいけない。デスックットプくらい壊れても取替えが効くが、後ろから棚が倒れてきたらきっと大怪我になる。身辺に置いているのは石鼎資料だけ。それだけで、周り中が囲まれてしまっている。

震源地は茨城の沖だとか。syoko.jpg   

 
久し振りに俳人協会の図書館に行ってきた。GW明けのせいか混んでいた。それを見越して早めに入って窓際の机を占領した。

本を用意してくれている間に、棚の結社誌をパラパラ繰っていたら、「狐啼く世に百年といふ区切り」という句にであった。わたしが昨年10月ごろ角川「俳句」に発表した
「陶枕や百年といふひとくくり」に至近距離。
この句はもう句集に入ってしまっている。

知っている名前の人だった。知っている人なら、12月頃の鼎談でも繰り返されたこの句を目にした筈。知らない間に身についてしまうとしたら、怖いことだ。それでも、以前のように12文字が全く同じで、季語だけ変わって半年後に
登場するよりは良しとするべきなのか。短いだけに俳句は怖い。心しなければ。                                                       

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2008/5/8 木曜日

麻布本村町 8

やはり梅田潔さんとは、鹿火屋で活躍した梅田玲如のご主人であった。玲如さんの本名が「きよ」ということも、教えていただいた。コウ子の「石鼎とともに」には、一度だけ石鼎が「きよこさんの家にいくと、いつも遅くなる」と文句を言っている場面が書かれているので、もしかしたら、きよこという名前なのかも知れないと思っていたが、これもはっきりした。

玲如さんの夫の梅田潔氏とは、服部セイコーの服部、東武鉄道の根津と共に満州鉄道の筆頭株主として日露貿易を中心に事業を展開した人物。麻布本村町の土地がいつから梅田氏の所有になったのかは不明だが、石鼎夫婦が大家と呼んでいた家は、玲如さんとは関係なかった。

もう一つの情報は荒潤三さんのもの。戦争焼失図があるなんて思いもつかないことだ。そこは荒さんが水道局にお勤めだったこととも関係があるかもしれない。連休明けに届いた地図でみると、現在の六本木界隈と南麻布地域。半分以上が焼けてしまった地域であることがわかる。焼けたところは、赤いろ。帯状にあちらこちらを走っている茶色は建物疎開をさせられた地域。建物疎開とは、延焼を防ぐために予め家を立ち退かせて、壊してしまった地域である。

荒さんは当時、青年団として、そういう家を壊すことに駆り出されていた。しかし、そんな姑息な智恵は何の役にも立た
なかったことを地図は物語っている。

。 sennsai1.jpg  

 

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2008/5/6 火曜日

朝日新聞2008/4/26

西村和子 時評より

ーー岩淵喜代子の第四句集『嘘のやう影のやう』(東京四季出版)は、比喩に冴えがある。「運命のやうにかしぐや空の鷹」「古書店の中へ枯野のつづくなり」実景と幻影の境界を明らかにしないおもしろさ。「「海牛をどこから運んできたのやら」「ブリキ屋に用はなけれど風知草」など、かろやかなおかしみがある。ーー
 

以上が「朝日新聞」の時評の私に関する抜粋だが、西村さんが「運命のやうにかしぐや空の鷹」を取り上げてくださったのは、嬉しい限りである。こうした類の句は、自分の中で確たる実感で、発表することに迷わないのだが、案外、他からは、やり過ごされてしまう。解説しにくいからである。わたしも解説したくない。返り見られなくても、それでも自分を信じてゆくしかないかなー、という思いである。

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2008/5/4 日曜日

麻布本村町 7

先日一緒に麻布本村町を歩いて下さった荒潤三さんから携帯メールが入った。本村町を歩いた日に石鼎の家も焼けたのかどうかを確認する問い合わせをしておいた。荒さんのお返事では、見に行ったわけでは無いけれど、そのあたりは全部焼けたとおもいますよ、とおっしゃった。

しかし、荒さんは気になっていたのだろう。図書館で終戦直後の地図を捜し出したらしい。「図書館の若い係員と戦災焼失図をあれやこれやと探しましたが、そこは年の功、探しあてまして、ホッと一息。図によって、すぐそばまで焼けていますが、石鼎さん、須賀さんの家は高台にあって焼けなかったようです」というもの。

それだと、コウ子著の内容と辻褄が合うことになる。「海千山千の芳如さん」という項で、麻布から二宮へ移転するときに、鈴木芳如さんが、他人に売ってしまうのは惜しい家だから、別荘に使っておき、必要になったらお返しするからといわれて格安で売っていく。が、終戦後鈴木芳如が、代議士の某氏が是非ともと懇願するので、売ってしまったと一万円を差し出したと、書かれていた。

誰かが声をあげていれば、誰かが声をあげてくれる、というのはこういうことかもしれないと思った。

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2008/5/3 土曜日

第20回俳人協会埼玉支部大会

「俳人協会埼玉支部大会」は毎年何故か五月三日に行なわれるのが、恒例となっている。ところが、この日が秩父の吉田町塚越の花祭りが行なわれるのだ。小さな村でよくこんなに大変な祭りが続いているのかと思うような見事な花祭りである。

折角ここまで来たのなら、その花祭りも見たいと思ったが、近所には小さな民宿が3軒あるだけで、前年の宿泊客がもう予約を入れてしまう。あまりに奥まった地域で、とてもついでに見て帰るというわけにはいかない。

それでも、駅近くのホテルにでも泊まって翌日の昼間の様子だけでも見て帰ろうかな、と思ったが、懇親会のあと観光協会に寄ってみたが、「1軒もありません」というにべも無い返事が帰ってきた。秩父もGWは混むのだ。

これなら、もっと早く地元の人に運動しておけばよかった。午前中から総会、俳句大会、懇親会と一日がかりだったので、見たのは12番札所だけ。牡丹が咲いて、藤が咲いて、けまんそうが咲いて秩父は五月に一斉に花盛りなる。

来年は人形の町岩槻だが、その次はそちらのほうで、と名指しされてしまった。一応、志木の相川シマさん・中田尚子さん・富士見市の井越芳子さん・入間の山口素基さん。他にも入力することなら、という心強い助っ人も現れて、何とか出来るのかなーという感じ。

しかし、朝霞は観光地もないし、知られているのは平林寺。それより、会場が二ヵ月前でないと取れないというネックがあって、困った状態を抱えなくてはならなくなった。

懇親会と120人を越す大会会場にはそれなりの費用が必要なのだが、集めているのは千円と懇親会費用だけ。かなり切り詰めた予算を組んでいる。でも、こちらは東京隣り合わせの地域だから、そんなわけにもいきませんよねー、と中田尚子さんと話し合って、ホテルも視野に入れて、会場探しをしましょう、という事におちついた。

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